人的資本経営の本質とはなにか
人的資本経営の本質とはなにか
ー 子育て・教育・地域活動・リフレクションを通じて見えてきた「人の成長が社会を動かす仕組み」ー
社会を動かしているのは、制度でも組織でもテクノロジーでもない。人の成長である。
はじめに ー 人的資本経営への違和感
近年、「人的資本経営」という言葉を耳にする機会が増えました。人への投資、リスキリング、エンゲージメント向上、人材版伊藤レポート。企業価値向上のために人的資本を強化するという考え方は、多くの企業に広がりつつあります。
私自身も、この流れそのものには強く共感しています。人をコストではなく価値創造の源泉として捉え直そうとする動きは、日本社会にとって極めて重要な変化だと思います。
しかし同時に、私はどこかに違和感も感じています。人的資本経営の目的は、本当に企業価値の向上だけなのでしょうか。企業は利益を生み出すためだけに存在しているのでしょうか。
私がこの問いを抱くようになったのは、経営理論や人事制度を学んだからではありません。企業で働きながら、ワンオペ育児を経験し、小学校PTA会長、市の小学校PTA連合会会長を務め、地域活動や自治体の活動に関わり、さらにリフレクションと対話、経験学習のワークショップ講師として多くの人々と向き合ってきたからです。
その経験を通じて、私はある共通した構造に気づきました。それは、社会を動かしているのは制度ではなく、人の成長であるということです。そして、その成長の中心には、経験を振り返ること、人と対話することがありました。
ワンオペ家事育児で学んだ「人が育つ仕組み」
私にはワンオペで育児に向き合った時期があります。4カ月ほど育児休暇を取得し、入院中の妻の看護と、当時5歳の娘との生活、家事育児に精一杯で、毎日が目の前の課題との格闘でした。
子どもは親の思い通りには育ちません。正しいことを説明しても伝わらない。叱っても変わらない。親として最善を尽くしているつもりでも、期待通りの結果にはなりません。
しかし、その中で私は一つの発見をしました。子どもが大きく成長する瞬間には共通点があったのです。信じてもらえたとき。認めてもらえたとき。見守ってもらえたとき。期待してもらえたとき。
人は管理されて成長するのではありません。信頼されて成長するのです。人は評価されるから挑戦するのではなく、自分の可能性を信じてもらえたときに挑戦し始めます。そして挑戦の中で失敗し、その失敗から学び、自分なりの成長を遂げていきます。
さらに気づいたことがあります。それは、子どもだけが育っているのではないということです。親もまた育っています。子育てとは、親が子どもを育てる活動ではありません。親と子が共に学び、共に成長する営みなのです。
PTA活動で見た教育の本質
その後、私は小学校PTA会長を務め、さらに市の小学校PTA連合会会長として学校現場に深く関わるようになりました。そこで見た教育の現実は、私の教育観を大きく変えました。
教師は知識を教える人だと思われがちです。しかし実際の学校現場で先生方が向き合っているのは、教科書だけではありません。子どもの不安。人間関係の悩み。家庭環境の違い。自己肯定感の低下。将来への不安。先生方は日々、一人ひとりの人生と向き合っています。
教育の本質は知識伝達ではありません。人の成長を支援することです。そして学校現場で改めて確信したことがあります。それは、人は教えられて成長するのではない、ということです。
本当に変化が起きるのは、自分自身で意味を見出したときです。誰かから与えられた答えを覚えたときではありません。自分自身の問いと向き合ったときです。学習とは知識を増やすことではなく、物事の見方が変わることです。
学習とは、認知の変容である。
そして、この原理は子どもだけではなく、大人にも当てはまります。企業における人材育成も、本質的には同じ構造を持っているのです。
地域活動で知った自治の力
PTA会長となって驚いたのですが、大事な仕事に地域との関係構築というものがありました。地域活動にも長く関わる中で、私は自治の価値について深く考えるようになりました。地域には行政だけでは解決できない課題が数多くあります。
防災。子どもの見守り。地域コミュニティの維持。高齢者支援。孤立防止。学校支援。こうした活動の多くは、市民の主体的な行動によって支えられています。そこには命令もありません。評価制度もありません。あるのは、「地域をより良くしたい」という思いです。
私は地域活動を通じて、社会は制度によって動いているのではなく、人の主体性によって動いていることを実感しました。自治とは、誰かに任せることではありません。一人ひとりが主体として関わることです。そして主体性は、人が学び、考え、成長する中で育まれていくものなのです。
リフレクションと対話の場で確信したこと
子育てや教育、地域活動を通じて、人の成長には信頼や主体性が重要であることを学んできました。しかし、その後さらに大きな気づきを得る機会がありました。
私は長年、企業や学校、地域において、リフレクションと対話、経験学習をテーマにしたワークショップの講師を務めてきました。そこで私は、多くの参加者が変化していく姿を見てきました。そしてある共通した現象に気づきました。
人は、自分自身を理解できたときに喜びを感じる。
人は自分自身を理解したい生き物である
ワークショップの冒頭では、多くの参加者が戸惑っています。しかし、自分自身の経験を振り返り始めると表情が変わります。当たり前だと思っていた経験。失敗した出来事。心に残っていた感情。忘れかけていた挑戦。それらを振り返る中で、多くの人がこう語ります。
「そういう意味があったのか」「今まで気づかなかった」「だから私はこれを大切にしていたんだ」
人は自分自身を理解できたとき、深い喜びを感じます。私はその場面を何度も見てきました。
人は経験を意味づけることで学ぶ
ワークショップで本当に価値があるのは、新しい知識ではありません。参加者自身の経験です。
人は経験しただけでは成長しません。経験を振り返り、意味づけし、学びとして再構成したときに成長します。同じ失敗でも、ある人は自信を失い、ある人は人生の学びとして受け取ります。違いは経験ではありません。意味づけです。
経験学習とは、過去を思い出す作業ではなく、過去に新しい意味を与える作業なのです。
対話が新しい自分を発見させる
さらに興味深いのは、その後に起きることです。参加者は自分の気づきを仲間と共有します。すると新しい気づきが生まれます。
自分では失敗だと思っていた経験を、他者は価値ある挑戦として見ていることがあります。自分では短所だと思っていた特徴を、他者は強みとして捉えていることがあります。対話によって、人は自分一人では見えなかった自分自身を発見します。
会場の空気が変わる瞬間があります。参加者の表情が明るくなる瞬間があります。未来への希望が生まれる瞬間があります。対話は単なるコミュニケーションではありません。対話は、人が新しい自分に出会うためのプロセスなのです。
幸福と成長の中心には対話がある
私は育児の中でも同じことを見ました。学校教育の現場でも見ました。地域活動でも見ました。そしてワークショップでも見続けています。
人は一人では成長できません。人は人との関わりの中で成長します。その中心にあるのが対話です。対話によって自分自身を理解する。対話によって他者を理解する。対話によって新しい視点を得る。対話によって未来の可能性を発見する。
私は、幸福と成長の両方に共通する条件があるとすれば、それは対話ではないかと思っています。
子育て・教育・地域活動・ワークショップに共通していたもの
子育て。教育。地域活動。リフレクション。対話。一見すると全く異なる領域です。しかし、その根底には共通する原理がありました。
| 信頼される | 期待される | 対話する | 挑戦する | 振り返る |
人は、これらを通じて成長します。そして成長した人が周囲へ影響を与えます。その影響が組織を変えます。組織が社会を変えます。
人の成長が社会を動かしている。
企業はなにを生み出しているのか
企業は何のために存在しているのでしょうか。私は今、企業とは商品やサービスを生み出すだけの場所ではないと考えています。企業は人を育てる場です。
仕事には、顧客との出会い、協働、挑戦、失敗、葛藤、意思決定、問題解決があります。人を成長させる経験が溢れています。
企業のもっとも重要な創造価値は、昨日より成長した人である。
人的資本経営をどう捉え直すか
人材版伊藤レポートは、人への投資の重要性を示しました。私はその方向性に深く共感しています。
しかし人的資本経営をさらに本質から考えると、次のような循環が見えてきます。
人への投資 → 人の成長 → 社会課題等の解決 → 社会的価値の創造 → 企業価値向上
企業価値向上は目的ではありません。結果です。なぜ人への投資が重要なのか。それは、人が成長することで社会が前進するからです。
人的資本経営とは、人材を管理するための言葉ではありません。人の成長を起点に、企業と社会の関係を捉え直すための言葉なのだと思います。
人的資本経営のその先へ
私はワンオペ育児を通じて、人が育つ仕組みを学びました。PTA活動を通じて、教育の本質に触れました。地域活動を通じて、自治の力を知りました。そしてリフレクションと対話の実践を通じて、人がどのように学び、成長するのかを見続けてきました。
その結果、私がたどり着いた結論はシンプルです。
社会を動かしているのは制度ではありません。
組織でもありません。
テクノロジーでもありません。
人の成長です。
人が学ぶ。人が成長する。成長した人が周囲に影響を与える。その影響が組織を変える。企業を変える。社会を変える。
人的資本経営とは、この成長の循環を企業経営の中心に据え直す試みなのだと思います。そして、その中心にあるのは対話です。人が安心して経験を語り、振り返り、学び合い、未来を語ることができる場です。
私は、人的資本経営の本質とは「人の成長を信じること」であり、その成長を支える最も重要な基盤は「リフレクションと対話」であると考えています。
そして、人の成長を支えることこそが、企業を変え、社会を変える最も本質的な社会変革なのだと思うのです。